存在の耐えられない拙さ

存在の耐えられない拙さ

PCだと1920×1080向けのデザインなのでそれ以上だと表示崩れます

あなたの見ている空色は、私のパレットの何色なのだろうか。

元々は新年1発目に出すつもりだった記事なので、挨拶をあけおめのまま投稿してしまい急いで消しました。こんにちは。

 

さて突然ですが、私の家では猫を飼っています。

俺の目の前でマヤノの唇を奪うバカ猫

名前や「ごはん」「おそと」「おかか*1」「ちゅ~る*2」など簡単な言葉は覚えており、これらの言葉を呼びかけると駆け寄って来て足などに体を擦りつけておねだりをします。

元々は触られるのをとても嫌がる種類の猫らしいのですが、子猫の頃から育てているからか、抱っこを全く嫌がらないどころか撫でられるととても気持ちよさそうにします。ここまで人懐っこいのは珍しいらしく、いつもお世話になっている獣医さんが羨ましがるレベルらしい。

帰宅するとどこからともなく玄関に走って来て、体を擦りつけたりお腹を見せたり、構ってほしそうにします。

うちを管轄する宅急便のドライバーにとても猫好きな方がおり、配達する荷物の中にうち宛てのものを見つけるとうちの猫に会えるチャンスだとやる気になるそう。ただ猫というのは気まぐれで、宅急便を受け取る際に玄関まで顔を出す時もあればリビングでダラダラしているままの時もあります。

 

かわいいし賢いしうちの猫が誇りで仕方ありません。ひたすら猫のかわいさを書いてもいいんですが、ある日私は思いました。

 

そもそも我々が名前として発している音を、猫は自分自身に付けられている名前だと認識しているのか。

 

私の家族は大概名前を読んでから「ごはん」だの「おそと」だの言います。あくまで例えばの話ですが、何かメッセージがある際の前置き程度の認識しかないのかもしれません。

しかし名前というのは猫に限らず人間相手であっても、用件がある際にまず言うもの。役割から考えると何の違和感もありません。

つまり、そもそも猫に名前という概念が理解できているのかどうか。これが人間同様に理解出来ているのか、そもそも自己の認識をしていないのか。

自己の認識をしていない、とはどういうことか。例えば鏡で自分の姿を見た際に、鏡に映り目が合っているその相手を、果たして自分だと認識出来るのかどうか。

 

調べました。普通に認識出来ていないらしい。

 

つまり猫からするともしかすれば、自分も普段触れ合っている人間同様の姿をしていると思い込んでいるのかもしれません。そもそも猫がそこまで考えているとも思えませんが、可能性のひとつとしての記述です。

自己を認識出来ていないということは名前という概念を理解しているはずもなく、普段我々が名前として扱っているその音も、自分を指しているのではなくあくまで自分を呼ぶためのものだと認識しているということでしょう。

ヒトにしろ名前の役割がそもそもそうなので本質は変わりませんが、ヒトとネコの間には多少の認識のずれが生じていることは確かだと言えます。

そう知見を得たところで私は幼少時代にずっと考えていたことを思い出しました。

 

自分の見ているこの色は、他人にも同じように見えているのだろうか。

 

例えば上のこのテキストは私には暗めの赤に見えます。おそらく皆さんもそうでしょう。しかし皆さんに見えているその「暗めの赤」は、実は私からすると全く別の色なのかもしれません。幼稚園に通っていたころずっと考えていました。

こんなことを考えているのは自分くらいなんじゃないかと思い込んでいましたが、「逆転クオリア」として扱われているものらしい。

およそすみれの組織をもつ事物はすべてその一人の人間の青と呼ぶ観念を恒常的に産むし、せんじゅぎくの組織をもつ事物はすべてその一人の人間の黄と呼ぶ観念を恒常的に産むから、それら〔すみれとせんじゅぎく〕の現象態がその人の心でどうであっても〔たとえ他の人たちと違っても、〕その人はそれらの現象態によって〔すみれとせんじゅぎくという〕事物を自分に役だつように規則正しく区別でき、青と黄という名前で表示される区別を理解できたり意味表示できたりするのであって、その点は、その人の心にあるそれら二つの花から受けた現象態ないし観念が他の人たちの心の観念と性格に同じだとしたときと、変わりなかったろう。

— ジョン・ロック 『人間知性論』(1690年)

色覚だけではなく聴覚や味覚などの感覚全てに適用の出来る考え方です。

しかし少し考えれば分かる通り、この事象が実際に起きていたところで異なる色を見ていたとしても同じ言葉でその色を表現してしまい、証明しようがないのです。

例え脳で認識しているものを画像化出来る技術が開発されたとしても、モニターなどに映されるその色は、実際に脳内を画像化されている人間が見ている色をそのまま映すわけで、自分が見てしまった時点で別の色になってしまいます。

そもそもこれが真だとしても、色盲などの場合を除いて現状では色の知覚のずれで生じる問題がないので、必死になって明らかにする必要もありません。先ほど引用した「人間知性論」にもこのような記述があります。

仮にもし〔同じ対象の観念が違う人で違うという〕反対の想定を証明できたとしても、私たちの真知の進歩にも人生の便益にもほとんど役立たず、したがって、これを検討する労を取るには及ばないのである。

— ジョン・ロック 『人間知性論』(1690年)

 

フランスの哲学者であるパスカルは人間を「考える葦である」と言いました。

「人間は自然の中では葦のように弱い存在である。 しかし、人間は頭を使って考えることができる。 考える事こそ人間に与えられた偉大な力である。」と述べています。

この形容からも人間というのは「考える」動物であり、それは我々に与えられた、最大級の幸福ではないかと考えています。

「考える」というとつい勉強などを連想しがちで、好きな人と一緒にデートをする、大好物を好きなだけ食べる、二度寝する...そのような幸福とは結びつかない方もいらっしゃるとは思いますが、その通りでこれらの幸福との決定的な差があります。

我々は「考える」という行為が当たり前ゆえ、そのありがたみを享受出来ていないのではないか、ということです。また「考える」という行為は勉強に限らないものであります。

 

今日の記事は結局ここまで書いて「証明しようないし、証明しても意味ないよ」という結論が出ました。それどころか300年以上前の哲学者がここまでの結論を出しており、ご存知の方も多かったかと思います。

しかし、この記事の本質は結果ではなくこの考える過程にあります。

 

あなたの見ている空色は、私のパレットでは何色なのだろうか。

*1:かつお節のこと

*2:ちゃおちゅ~るのこと